推しを『推し』と呼べなくなった日

特別お題「わたしの推し

 

 私には、2015年から『推し』と呼んできた声優さん(Nさん)がいる。しかし、昨年の9月、私はその声優さんを『推し』と呼べなくなった。理由は色々あるけれど、9月の私がprivatterに投稿した文章があまりにも言い得て妙で。それをこちらに載せようと思う。

 

ぷらいべったーを開いて、最後の更新が2019年7月であることを知った。私のNさんオタはそこで途切れたように思う。

 

いや、思い返せば、知らないふりをしていただけで、もっともっと昔からそうだったのかもしれない。

 

変わったのは、あの頃からだ。彼女が所属するグループが1月にライブをした後のあたりから。私が成人式の後に行ったライブだから、3年と半分くらい前。2018年1月。その後から少しずつ私は、自分の力でNさんの情報を得ることをやめた。

 

ここだけの話だが、Nさんが両国でライブをしたあの日、あの後の打ち上げ、それから私は、彼女たちをカップリングの目で見る人たちのことを気持ち悪いと思うようになった。私も同じことをしていたのに馬鹿だと思うが、一緒にされたくなかった。貸切状態だったとはいえ、公共の個室でもない居酒屋でカップリングの名前を出して話をする人たちと同じ立場にいたくなかった。

 

カップリングの投稿を見返してみた。2018年の夏が最後だった。しかも、Nさん絡みではなかった。このときの私は、フォロワーさんの推しカプを書いてみたくて、書いたように思う。好んで書いたのかは、もう分からない。

 

3次元の推しといえば、私は活動休止をしているアイドルグループがずっと好きだ。活動休止という状態になって分かったのは、それでも私は彼らのことが好きだし、復帰を待つという微かな希望を持って日々を過ごせるという事実だった。


推しというのは、彼らのようなことを言うのだろう。ふと思い返したときに幸せになれる、炎が小さくなったとしても心に灯り続ける、何も無くたって好きだと言える、そんな人・もの・ことが『推し』だ。

 

Nさんへの感情は、燃え上がる炎が強すぎた。あの頃は良いところしか見ていなくて、見えていなくて、推しではなく崇拝対象にも近いなにかだったのだろう。

 

オタクグッズは2次元も3次元もまとめて箱にしまってある。缶バッジだけは2次元も3次元も飾っているが。


時々、オタクグッズが増えると箱を整理する。そのときに出てくる衣装ラバストとか、鈍器とか、盾とか、そういうのに心躍ることがなくなった。思い出すのは楽しかったライブだけれど、どうしてだろう、書きながら思い起こしたら涙が出てきた。これじゃまるで、『もう二度とない思い出』みたいじゃないか。同じライブはもちろん二度とないけれど、そういうことじゃなくて、あの楽しい空間がもう二度と来ないという意味だ。

 

元々耳からの情報が苦手なこともありラジオは聞いてこなかったが、今の私は加えて、惰性でCDを買い、辞めてしまったらもったいないというよく分からない理由でFCを続け、SNSはリストに入れているが流し見、本業も今何をやっているか知らない。ツイート文をそのままコピペしたけれど、とにかく、推し事は何もしていないに等しい。

 

4月に、Rちゃんのオンラインサイン会に参加した。ああ、好きだなぁ、なんて、Nさんに比べたら熱量は最初から低かったのに、そう思った。きっと、Nさんにも会えば同じことを思うんだろう。逆に言えば、会わないこの状態が続くうちは、好きだと胸を張って言うことはできない。でも、2021年初め頃の横アリライブに行ったのにこう思っているのだから、会ってもその瞬間しかオタクには戻れないのかもしれない。


ウイルスが落ち着いて、活動が再開したら。惰性でCDを買い、サイン会に応募し、ライブに申し込み、途切れ途切れに好きの気持ちを作り出して、推しているような状態になるのだろう。

 

推しがいなくても、生きていける。3次元の推しを見失い、2次元の推しへの熱が冷めても、生活している。

 

↓ここから追記

ところで、私は『愛』が分からない。ぷらいべったーなのをいいことに書くが、恋人のどういう言動で愛を感じるかという話をした際に私は『体のつながり』と答えた。後から考えて、セックスで愛を感じているのは、セックスをすることで、温もりが与えられることで、『愛されている気になっている』のだと気づいた。物理的なものは目に見えやすく、肌で感じやすく、なんとなくそんなような気がするのだ。そして、私の『愛されたい』は不特定多数だ。極端な話、初めて会った人とだってセックスができる。もちろん、優しくされるなら、というのが前提だが。優しく抱かれれば、それを『愛』に変換してしまうのだ。私の脳は。

愛されている状態がどういうことなのかも分からないのに、人を愛することなどできるはずがない。知らないことはやれない。初めから、私の推し事は依存であって愛ではない。依存を熱量に変換しているだけだ。依存はそれなりの供給がなければできない。だから、私には、もう。

↑ここまで追記

 

何が言いたいか分からなくなってきた。

 

悔しいし、憎いし、悲しい。世界がこんなことにならなければ、Nさんへの熱がいつからかニセモノになったことから目を背け続けられたのに。


悔しいし、憎いし、悲しい。ニセモノであることに気づきながらも、推しているような装いをしていた自分が。


悔しいし、憎いし、悲しい。離れる理由が不満ばかりで、笑顔のまま良い思い出としてNさんから離れられなさそうであることが。

 

私はもう、Nさんのことを『推し』と呼べる人ではなくなった。書きながら、泣きながら、そんなことを思っている。

 

 Nさんは、2021年の暮れにアルバムを出した。それは買っていない。お金が無いというのもそうだが、もう、追いかけるだけの力がない。私には、彼女を推す理由がなくなってしまった。

 

 最近は、毎日を忙しくしていて推し事をする余裕もなく、どこにもぶつけられない感情を抱くことも少ない。それくらいが、私にはちょうどいいのかもしれない。

 

 もし、今後また推しができたら。その推しへの熱があまりにも大きかったら。それはホンモノなのかを立ち止まって考えたい。